全ての始まりは、私が住む、築十五年のマンションの、寝室の隣にあるトイレから、夜な夜な聞こえてくる、奇妙な音でした。それは、誰かがトイレを流した、数分後に、決まって聞こえてくるのです。「グォーーー…」という、まるで、どこか遠くで船の汽笛が鳴っているかのような、低く、長く、そして不気味な、うなり声。その音は、三十秒ほど続くと、ふっと消える。しかし、静かな深夜の寝室で聞くその音は、私の安眠を妨げるには、十分すぎるほどの存在感でした。最初は、上の階の住人の、排水音だろうと、高を括っていました。しかし、ある夜、私が自分でトイレを流した後、やはり同じ音が、壁の向こうから聞こえてきたことで、その音が、我が家のトイレから発せられていることを、確信したのです。インターネットで、「トイレ 異音 ゴー」と検索すると、出てくるのは、「止水栓を調整しろ」「タンクの中を掃除しろ」といった、素人でもできそうな対処法でした。私は、意を決して、生まれて初めて、トイレのタンクの蓋を開けました。しかし、中は、思ったよりもきれいで、特に異常は見当たらない。次に、止水栓を、マイナスドライバーで、少しだけ閉めてみました。しかし、音は、一向に止む気配がありません。それどころか、日を追うごとに、その音は、少しずつ大きくなっているような気さえしました。もう、私の手に負えるレベルではない。そう悟った私は、ついに、マンションの管理会社に、助けを求める電話をかけました。翌日、訪れた設備業者の方は、私の話を聞くと、慣れた手つきで、トイレの周辺を点検し始めました。そして、数分後、静かにこう言ったのです。「ああ、これですね」。彼が指差したのは、トイレの床と、壁の隙間。そして、彼は、音の原因が、建物全体の排水管(共用縦管)の、構造的な問題で、私の部屋の排水管と共鳴して、音が発生している可能性が高いこと、そして、その修理には、大掛かりな工事が必要になるかもしれないことを、丁寧に説明してくれました。結局、その後の調査で、私の家のトイレに、直接的な異常はなかったことが判明しました。しかし、あの夜な夜な聞こえてくる、不気味なうなり声と、一人で格闘した、あの不安な夜の記憶は、私に、見えないインフラの複雑さと、専門家の知識の重要性を、深く教えてくれたのです。